亡霊ニヒツ

あまりにも悲しくて、それはなぜ悲しいか考えたところで最もらしい結論を導き出せないまま、ぐるぐると、頭の中を彷徨っている、亡霊のようなもの。カオマンガイを食べようとした時、ブルっと震えたApple Watchからは、半年ほど音信不通の人の3ヶ月ぶりのブログの更新の通知だった。それは、ここ1週間悩み続けたことに対する玉音放送のような、絶望感を伴っていた。何がそうさせたのか、何が原因なのかは理性では解決できない問題である。ホモ・エコノミクスのように定まった類型ではない、感情を持つ人間だから、戦争が起こるのだというように、半ば諦めのような感情である。そういえば、にんげんは中途半端に手に入れたもの、手に入れかけたものは手放したくないらしい。だからこんな気持ちになるんだな、と思いながら、そして、もし手に入れた(正確には手に入れるわけではないけど)としてもそれは幸せな結果にはならないだろうと思いながら、いろんな気持ちが想起していく。


ラジオが言う、「今日が良かった人も、そうでなかった人も」のように客観的で、でも包容力のある、力強い感情を持ちたい。確実にご飯に行きましょう に対する返信はないだろうけれども、それは過去に自分がそうしたように、1つの罰として認めなければならない。それは死んだ時に地獄に落ちないように、クレジットカードの返済額が高額にならないように、先に支払っておくのと似ている。


今日も暑い、酷暑が続けば日常になるように、いつか鈍感に楽天的な気持ちになれることを願う。夢に出てきたり、美術館であの人の香水だ、と思ったり、スカイロケットカンパニーで思い出したり、wistonのあまりにも甘い匂いだったり、日常的なものと結びつく記憶を上書きしなければならない。たぶん、意識すれば意識するほど忘れられなくなるから、時間が解決するんだろうけどね。